2025年12月10日 18時32分
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日々が完全にこれ
しかし形容をすべてストリップして、「人間・男・50代」の等身大として見るならば、こんな人は多分相当数いるのではないだろうか。捉え方次第で同じ人生でも幸福にも不幸にもなるだろう。
もう10年近く前のことだが、忘れられない記憶がある。
仲の良いフォロワーがいた。ここでいう「仲が良い」は、当社比でいうと、かなり仲が良い。共有アカウントを持ってたり、お互いしか知らない鍵垢でつながってやり取りしたり。
ある日、スワイプしていたら彼女のフォローボタンに指がかかりそうになって、「あやうく◯◯さんをリムーブするところだった」的なことを言ったのだと思う(細かいフレージングは覚えてない)。本当に何の気なしにその時起きたことを言っただけのつもりだった。だが彼女はそれを聞いて、「そんなに傷つけてしまったなんて思わなかった。ごめんなさい。気をつけるね」というような旨のことを私に言った。
私はさっぱり覚えてないが、曰く、私が誤タップしそうになった直前に、彼女は私を弄るようなことをツイートしていたらしい。だから私がそれに反抗して皮肉を言ったものととられたのだ。勿論そんな意図はまったくなかった。
だが私がこの件について訂正をしたかどうかもよく覚えていないし、仮にしていたとしても、その後関係がギクシャクしてしまったという事実だけが残った。
私がこのことを思い出すのは、この現象の根本的なおそろしさのようなものを感じているからだ。彼女の例では明言してもらったからまだよかったが、こういった意図しないすれ違いが起きたのに何も言われず、無言のままに離れていってしまう例があったかもしれない、というかおそらく沢山あったのだと思う。
私がまったく意図しないところによる無自覚な傷つけが発生して、その贖罪の機会をもらえないまま関係が立ち消えてしまうなんて、あまりに悲しい。私が傷つけの唯一の主体なら自己責任で済むかも知れないが、さっきのフォロワーの例然り、双方向性だと本当に悲しい。つまり、彼女も彼女で「彼を傷つけてしまった」という罪悪感をずっと抱えて生きていくことになるのだ。本当は傷つけてなんていないのに。
お互い悪意はなく、むしろ焦がれているのに、すれ違いひとつでこんなことが起き得る。私はそれがおそろしい。己の鈍感が今まで何人の人に何をもたらしてきたのか考えると、生きていてはいけないような気すらしてしまう。
もっとも、これがまったく他人の日記に同じ文句が書かれていたら、私は平然と「そう思い悩むことこそがやさしさだ」なんて美辞麗句を心から告げるのだろうが。
人間は我が身が怖ろしい悪党であるという事実を徹骨徹髄に感じた者でないと苦労人とは言えない。苦労人でないととうてい解脱はできない。
吾輩は猫である
他人を悪党呼ばわりするのが簡単なように、他人を善人呼ばわりするのも簡単だ。自分を他人と同じ眼鏡で見られないのは当たり前のことだし、同じ行動に対しても自分がやった場合と他人がやった場合で判断が変わるのが現実を歪めているとも言い難い。純粋理性批判に言わせれば、そもそもすべては色眼鏡であって純たる現実など認識できないのだ。他人を見る時の現実と、自分を見る時の現実があるだけだ。どっちが正しいかじゃなくて、どっちが居心地が良いかで無意識に現実を選んでいるのだろうし、ならば私は罪を背負う方が楽なのだろう。
太宰治の「待つ身がつらいかね、待たせる身がつらいかね」はよく馬鹿にされるが、私はかなり胸に響くものがある。自分なら待たせる身のほうがつらい。
何度か言ってるけど、「優しい言葉は無責任だ」みたいな「やさしさ批判」に納得がいっていない。なぜならこの言葉はやさしさを批判するだけでなく、やさしさと厳しさの二元論下においてやさしさをsageて厳しさをageる目的でしか使われないからだ。この前提のもとで考えると明らかにおかしい。なぜなら、確かにやさしさは無責任だが、厳しさも同等以上に無責任だからだ。
たとえば「勉強は無理してするものじゃないよ、好きなときでいいんだよ」というやさしさと、「いい大学に入るために毎日5時間は勉強しろ」というような厳しさを考える。前者を選んだ結果、学力不足で受験で失敗しようと、後者を選んだ結果、体を壊したり心を病んで失敗しようと、どちらも責任なんて取れやしない。ところが「厳しい言葉は無責任だ」というような言われ方はほとんどされない。
私としては、どうせどちらも無責任なら優しい方を選ぶべきだと思っている。反対するなら、「責任の有無」とは別の所で、厳しさを選ぶ必要性を説かなければならないだろう。
言い訳は優しく肩を叩くが その先の面倒は一切見ちゃくれない
一時期は共感していたが、発破だって基本的に面倒は見ないことにいつか気付いた。まさしく「飢餓感と闘うのは自分一人であって、誰もそれを助けることはできないのだ」。
後から悔やむから後悔、というが、この本来失ってからでなければ気付けない尊さについて、先んじて感じる方法を思いつきました。
オレは…佐原を救えない……佐原もオレを救えない……
絶望的に離れ離れだ……!
なのに……なんだ……?この温もりは……!
胸から湧いてくる……この温かさ……感謝の気持ちは……
佐原が……佐原がただ……そこに在るだけで……救われる……!
奴が目の前にいないその寒々しさを考えたら……
今……見える存在はまさに救い……!希望そのもの……!
『賭博黙示録カイジ』
カギは「奴が目の前にいないその寒々しさを考えたら」の部分です。これを意識的に行えばいい。周りの人、誰でもいいです。友達でも家族でも同僚でも。その人が目の前にいる時、というかその人を目の前に持ってきて、考えてください。彼/彼女がそこにいない寒々しさを。もう会えない。明日になっても一年後になっても、影も形もない。どんな言葉も二度と交わせない。その寂寞に思いを馳せてください。
言葉にできないほどの感謝の念が湧いてくると思います。逆にこうしても湧いてこない関係性ならいっそ切ってしまってもいいかもしれない。
酷なようだが、わたしはインターネットのみの関係の人のほとんどはこの「湧かない」ゾーンに当てはまるので、多分これが散々言っている現実関係至上主義の発生源なのだと思う。
……いや、どうかな……。オムには湧くしな……。あとほとんどといっても何人かには寂寞を覚えるよ。
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